【かんだ薮三代目堀田康一翁追悼】

     堀田康一翁を偲んで

 平成十一年、『薮そば』 の旦那・堀田康一様は卒寿、女将さん・豊子様は傘寿を迎えられました。
 旧き良き江戸の風情の残る神田のあの場所に、四代のご家族が楽しく同居する中でのご慶事に一層の深みと重みを感じましたが、それから五年、平成十六年夏、旦那さんは見事な天寿を全うされました。
 そば業界の大先達としてだけでなく、人生の師匠でもあった堀田康一翁のご逝去に、心からのご冥福をお祈りいたします。

 私が『薮そば』にお世話になったのは今から40年前になります。東京での大学生活を終え、すぐにお世話になりました。
 私の『薮そば』見習は祖父の悲願だったようで、無理やりお願いに参上して、お許しを得たものであるとの話を後で聞きました。
 はじめから『薮そば』に入店し、『薮』で育った店員さんにとっては、『薮』のシステムを当然のものとして受け止めたでしょうが、千葉県松戸市の田舎のそば屋『関やど』に育った私にとっては、清潔な、合理的な台所で完璧な品質管理のもと丁寧な扱いで作られ、そしてあの風情のある店で食べるそばは、とてもそばでも…″などというものではなく感じたものでした。

 新入りの見習いが初めてそばと接する作業で、釜前がさっと盛り付けたそばを菜箸でほぐし、食べやすくするせいろならし″という作業は最初のカルチャーショック≠ナ、あのもりそば一枚にかける手間に驚かされたものです。
 また、初めて『薮そば』に行った人は驚き、常連は『薮』に来たことを実感するあの独特の符丁は、単なるムード作りのものではなく、膨大な情報を含んだ帳場から台所への注文を送る信号であり、順番通りに、また品質管理の面からも極めて合理的なすぼらしいシステムで、感動を覚えるほどでした。

 その後『薮』のそば≠ノ接することによって、初めてただの“もり、かけ″の美味しさに目覚めたと同時に、豊かな食生活の時代の到来のきざしの中で、かって歩≠フ扱いであったそばがと金″となり、粋で渋い食べ物の代表として、独自の地位を獲得するのではないか、ということを感じ始めました。
 いま全国的に「そば」はそうした地位を確立しつつありますが、そこにはあらゆる情報を公開して、真のそばの普及に尽力された旦那さんの存在は極めて大きな影響を与えたものと確信しております。

 『薮そば』 の三代目としてこの地に生を受け、幼馴染のご近所の鳥の名店『ぼたん』 のお嬢さんであった奥様と結婚され、本当に仲睦まじいご夫婦でしたが、戦争中は外地に出征し、将校として白兵戦も体験されたというお話、また戦後はお二人であの大きなお店、台所でご苦労されたというお話もお聞きしたことがあります。
 家業でありながら企業並みの雇用体系など、まだ戦後の余韻の残るなかでのこうした現代に繋がる基本方針は、すべて旦那さんの公平・公正の確固たる信念のもとに確立されたものであった事でしょう。
 見習い期間を終了したとき、旦那さんから薮そばの写真の入ったアルバムを頂きました。そこには次のサインがあります。

 「ありがたいことに土台がある。さらに尽くそう世のために

 旦那さん、本当にありがとうございました。

**付記**、
『薮そば』は、かつての沙羅屋の建物の並ぶ須田町の交叉点付近にあり、東京下町にあって戦災を免れた町の一角には『ぼたん』、『いせ源』、『竹むら』等という名店が晋のままのように並んでおります。長い間、不思議に思っていたのは、その地域の家には内風呂がなかったことでした。この日本を代表するそば店の大旦那、女将さんが風呂桶を持って銭湯に通っていたことも、感動とともに懐かしく思い出します。