ぼくの 藪そば物語

昭和38年〜48年

ぼくの 藪そば物語

・・・・・・・ 1

薮の符丁

・・・・・・・8

田舎のそばやの藪ショック

・・・・・・ 10

味覚自分史

・・・・・・ 12

連雀町界隈

・・・・・・ 15

残像
・・・・・・ 17


1
お目見え

小生の藪そば見習は、祖父治助が無理やりお願いに参上し、二度お断りされたのを、屈せずに、執念を持って更にお願いし、三度目にやっと許可されたものだとの話を後で聞いた。

そばを家業としながらも、祖父は自らの意志で多品種営業を決定し、父の協力のもとに寿司をはじめ、その後もさらに献立を拡張した結果、本業のそばが軽視されてきたことへの反省もあったのだろうか、祖父は小生をなにがなんでも一流のそばやで奉公させたい、と思っていたらしい。

それまで日本そばをうまい、などと思ったことはなく、また、あんな低カロリー食品を食っていたので、戦争に負けたのではないか、などとも思っていた小生だが、伝統を継承することを運命付けられていた身として、見習奉公の初めはそばや、ということは覚悟していた。

通常、見習入店する時には、“お目見え”といって、入店前に本人が親と一緒に御挨拶に行く、とのことである。だが、本人はそんなことを知らずに、我が家の人身御供としてのそばやへの島流しを目前にして、“入営”までのしばしの間の娑婆生活をスキーで紛らわせていた。だから藪そば生活の第一歩の“お目見え”は“本人抜き”で行われたのだった。
これが異例だったということは、のちにおかみさんから聞いた話である。

「そばもまんざらではない。その気になれば面白いものかもしれない」、と同時に、「これは大変だ。どこから手を付けていいのかわからない」、という恐怖を感じたのは、入店後のさまざまなカルチャーショックによるものである。


せいろならし

藪そばの新入が「はじめてそばに接する」のが、この“せいろならし”である。

忙しい時間帯の「釜前」は茹で上げ専門で、せいろへの盛り付けが専門がつく。
盛りつけ”はそばをよくほぐし、せいろへ三回に分けてざっと盛り付ける。
三回に分けて盛りつけるのは、客が箸で引き上げた蕎麦の末端がせいろのとんでもないところまでつながっていないようにして、食べやすくするためである。

盛り付けの周りに張りついて、大雑把に盛ったそばを引き継ぎ、菜箸できれいにならすのが“せいろならし”で、蕎麦の行列しているものを一本一本ばらばらにして盛り上げ、その間を蝿が通り抜けられるように、などといわれた。
上手な盛り付けの譬えとはいえ、蝿が蕎麦の間を飛び抜けるのを連想させるのは、ちょっと具合が悪い気もするが、伝統を感じさせる話だ。
たかがもり蕎麦にかける膨大な手間こそが藪における最初のカルチャーショックであった。


中 台

釜前に勝るとも劣らない蕎麦屋の要のポジションで、釜前が暖めた丼のそば、かけそばや鴨南蛮、天ぷらそばにそれぞれの具をいれた汁をかけて仕上げる。

釜前(かままえ)は注文の順番にしたがって、それぞれの種類の丼を重ねておく。
中台(なかだい)は順番通りに、天ぷらそば、鴨南蛮、花まきそば・・などの汁を作り、出来上がると大きな声で、「天一杯よろし」「南蛮つき三杯天ぷらよろし」、などとと釜前に連絡する。
釜前はすかさず丼にそばを入れ、丼とそばを温め、ざるでふって湯を切り、中台に渡す。釜前と中台の阿吽の呼吸を必要とするところである。
中台は出来上がった汁をそばにかけ、三つ葉、海苔などを付けて仕上げる。

湯を通したそばは“のんびり”とは扱えない。また一緒に出すもりそばや他の種もののそばとタイミングを合わせて、同時にきれいに仕上げるには、手早さ、機転の才能と熟練を要求されるところだ。


釜 前

中台、生(そば打ち)、天ぷら等を終えてから任される、そばやの台所の中心のポジション。
風呂やと同様、釜の火を落としたら(消したら)その日のそばやはおしまいである。

帳場の符牒を聞いた釜前は、注文の順番通りにせいろ、丼をならべる。
もりそばと暖かいものがおなじ組みの注文の場合はせいろ(もり)を作って盛っておき、後から暖かいものを仕上げて一緒に出す。
暖ためたそばのほうが、味の変化が早いからだ。
なかには茹であげてから時間が経った、乾いてふわふわした“もりそば”を好む客もいるが、通常は茹でたてを冷やした、シコシコしたものだ。

ほとんどがそば粉のそばで、つなぎのうどん粉はほんの少ししか入っていないから、
約一分程度で茹であがる。つなぎのうどん粉が多いそばはとても短い時間では茹であがらない。

今は当たり前だが、当時普通のそばやでは、うどん粉がたっぷり入ったものをそばとして売っていた。

そば粉の値段はうどん粉の3〜5倍。
米への憧れが残っていた時代で、東京の一流店は別として、地方の普通のそばやは、そばをご飯の代用食、また儲けるものと捉えて、たっぷりとうどん粉を入れたもの売っていたようだ。

うどん粉を多くすれば原価は安くなり、また、機械を使って製麺しやすいのだが、茹でる時間がかかるので注文の度に茹で上げることはできない。
だからお客に待ってもらうか、または見込みで茹でておくことになりかねない。

メニューに丼ご飯も含めるか、とともに、高価なそば粉をたっぷり使うか、つなぎを沢山混ぜたものにするかは、たんに作業手順や原価の問題にとどまらず、店の進む方向を決定する大きな、重大な選択だと思う。


そば粉たっぷりのそば
  → 手でこねなければならない
  → 早い茹であがり
  → 注文の都度茹でることが可能
  → お代わりが容易だから少量盛可能
  → 腹に合わせた注文可
  → 満足度大

つなぎ(うどん粉)の多いそば
  → 機械製麺が可能
  → 遅い茹であがり
  → 追加は時間が掛かるので大盛になる → 店の指定した分量を強制される
  → 満足度は値段による場合が多い
  → メニュー品目の増加


天ぷら

小えびのかき揚げで、えびは芝えび・さい巻・くまえびなどをつかった。天ぷら一個あたり八尾ぐらいだっただろうか?
当時の藪蕎麦のせいろは80円。
天種と称した天ぷらは100〜130円ぐらいではなかったかと思うが、時には小えびが一尾10円以上して、えびだけで原価一杯の時もあったようだが、店は何事もないように使っていたことに感動したことを思い出す。

お玉に小えびを“水のような薄い衣”で混ぜ、高熱の鍋のなかに入れる。自家製の専用のすくい網と箸でかき揚げのえびを丸め、飛び散った薄い衣を集めて天ぷらの上に乗せる。
薄い衣だから冷たいもり蕎麦の汁にもさっと溶ける
えびが入っていなくても、むしろ揚げ玉だけのほうが好きなくらいで、入店した頃は病みつきになって、毎日食べても飽きなかった。

藪に天ざる、天せいろはない。
しかし藪は昔からせいろのオプションとして天ぷらを付ける食べ方を創作していたようだ。
符牒は“せいろ一枚天だねがつきます”

おそらくそれが昨今、どこの店でも当たり前になった天ざる、天もりのもとになったのではないだろうか。藪ではじめてこうした食べ方を知った。

薄い衣を技でまとめた“こわれもの”のような天ぷらだからこそ、せいろの冷たい汁にさっと混ざり合って独特の風味を出すこの天ぷらは、傑出した「もりそばの菜」であると思う。
通常の濃度の衣で揚げる店では、そばはそば、天ぷらはてんぷらと言った感じで、また、店によっては汁を温めて出している場合もあるが、冷たい汁で食べてこそ天もりだと思う。


鴨南蛮・あいやき

わが家にも鴨南蛮があったが、使っているものはで、かしわ南蛮とも称していた。
いいかげんなものだ。どっちも鳥であることは間違いないんだから、とでも思っていたのだろうか。
本当に鴨を使っているのに驚いたとともに、はじめて相鴨の味を知った。
鶏と違って濃厚な味だが、この味を知ってしまったあとは、かしわ南蛮などには目もくれなくなってしまった。

鴨は厚く、かしわは薄く、と言うのだそうだが、たっぷり切った肉とねぎを鴨から取った油で焼き、塩を付けて食べる“あいやき”は作っている時でも見るからにうまそうで、藪の店でこれをつまみにして飲んでいる客を妬ましく感じ、いつかは藪に店の玄関から入って、あいやきで一杯飲ってみたいと思ったものだ。

賄いで、相鴨の切り落としと、ねぎを入れて炒めたうどんも忘れられない味である。
そののち、わが家でも待望の相鴨を使うようになって、飽きるほど食べたが、神田で食べた時ほどの感激は沸かなかった。また、最近は鶏にもうまさを感じるようになってきた。
これも味覚年齢だろうか。


辛汁と甘汁

もり蕎麦の汁・辛汁は本鰹と利尻昆布で全体量の半分ぐらいにまでつめて、そこに醤油と砂糖だけで作った“かえし”(生がえし)とみりんを入れて湯煎し、二日熟成させて三日目より使用する。
砂糖は“アク”の少ないグラニユ糖を使う。

わが家の砂糖は、粗目(ざらめ)を使っていた。
粗目は糖分は強いが、あくも強いので、あく抜きをするために、粗目に玉子の白身を入れ、よく混ぜ合わせて鍋にかけ沸騰させないように火加減し、浮き上がって固まったあくを捨てた砂糖水に醤油と味醂を加えて、そば汁のもと・“かえし”としていた。

このあく抜きの作業は、案外手間が掛かるもので、丁寧に白身を混ぜなかったり、沸騰させてしまったりすると、あくが固まらず、大騒ぎになった。
あくを取る必要はないが、喫茶店のコーヒーだけにしか使わないと思っていた高級砂糖・グラニユ糖を惜しげもなく使用するということにも、驚かされた。

かけ汁(甘汁)はさば節だけで一割ほど詰めたところにかえしと味醂を入れてすぐに完成。
辛汁は三日がかりだから、絶対に切らすわけにはいかないが、甘汁は短時間でできる。そして出来立ての香りが抜群で、これが“かけ”に対する認識を改めさせたのだ。

ひとつの汁をそのまま“もりそば用”として使ったり、ただのお湯で割ってぶっかける、まさにその名の通りの“かけ”しか知らない田舎の蕎麦屋からすると、うそのように手の込んだ作業だった。
家では天ぷらを入れたり、南蛮などにすればまだしも、まったく食べる気にならなかった、ただの“もりかけ”の美味さを初めて体験させてくれたのが藪だった。


蕎麦打ち

当時の藪の蕎麦はそば粉九割つなぎ一割、そこに玉子をたっぷり使って木鉢でまぜあわせ、だんだんにまとまり出したら、“くくる”という作業を経て仕上げ、最後の最後に機械で切断する。

粉の粘着部分、グルテンがそばの場合ははなはだ熱に弱いとのことで、粉と水をかき混ぜる機械・ミキサーや、そばをのす機械に何度もかけると、そばが熱を持ち、ぼそぼそに切れてしまう。
藪ではほとんど手で仕上げるので、機械にかける直前の段階では薄く、表面はつるつるになっていて、もし少量ならばそのまま麺棒で伸ばして切ってもいいほどにに仕上がっている。

若い衆が出前で追いまくられるわが家では、そば粉と水を混ぜるミキサーが置いてあったが、祖父は木鉢で練らないと怒ったものだ。
ただ、木鉢で粉と水を練り合わせただけのようなものを、足で踏んでのばしたあと、“何度も機械にかけた”のだから、木鉢を使う意味はあまりなかったのではないかと思うのだが、それはそばやとしてのプライド、精神上からではなかったのではないかと思う。それに、つなぎが沢山はいっていたからこそできた技ではなかっただろうか。


焼海苔

海苔を焼くことも朝の仕込みのひとつだったが、ガス台の上に網をのせ、数枚ずつ合わせて裏表と返しながら焼く。
網の上で引きずると海苔の粉が落ちるので、引きずらないようにして焼くのだが、透かして見て、平均に緑色に焼き上げるのはなかなか難しいものだ。


薮の庭(冬)

藪の庭は毎朝箒で落ち葉を掃き、それが終わって朝飯。わが店では、台所で時には立ったまま食べたが、藪は社員食堂があって、炊きたてのご飯と熱い味噌汁、佃煮などが待っていて、旦那、おかみさんと家族、店員が揃って一緒に食べる。ちょっと緊張しながら・・・
冬になると庭に松葉を敷き詰めるので、掃き仕事は楽になる。


魚河岸

藪では毎朝、穴子南蛮用の穴子、またかまぼこを築地の魚河岸に仕入に行く。

魚河岸は子供の頃から時々親父につれていってもらった。
朝早く、仕入を終えた後で食べる市場のスタンドの饅頭やパン、そしてノッケ(カツカレーの元祖)は忘れられないうまさだったので、藪での魚河岸行きを、熱望申請して行かせてもらうことになった。

神田から魚河岸まで自転車で行く。
寒い時期だったが、店から自転車で早朝のお江戸の中心、三越の前、日本橋を走るのは実に爽快で、さらに買物を済ませてから、さて、今日はなにを食べようか、というのも楽しみだったが、時々は松戸から仕入にくる親父と待ち合わせて、小遣いをもらったり、普段行かない店に連れて行ってもらったことも思い出す。

魚河岸から帰ってくる頃には、店の朝の食事は終わってしまっているので、“河岸行き”には、そばを食べさせてもらえるという特典があったようで、そのころ「うまさ」をおぼえ始めた、できたての甘汁を張った“かけ”は、河岸で食べてきた後でも楽しみだった。


やぶそばの値段

昭和38年当時、松戸ではラーメン、餃子、もり、かけは50円。天ぷら蕎麦は 100円ぐらいだったか?
藪蕎麦のせいろは80円。しかし分量は田舎のそばやの3分の1程度。だから松戸のそばの約5倍ほどの値段だった。

メニューは単純、シンプルにして、すべてが高品質。間口は狭くも深い奥行き。
これこそ飲食店の理想とすべきところで、そばだけしかない店でありながら(それだからか)、また、当時の東京のそばやの中でも有名な「二〜三箸で終わってしまう盛り」(食べる枚数を自主選択できる分量)だったから、値段は安いとは思わなかったが、日曜日には客の行列ができ、わが店のそば、丼もの、寿司、料理そして出前の合計の数倍以上を商うということには本当に驚かされた。

そばやとも称するが、考えてみれば一体“なにや”なのだかわからないほどの数多くのメニューに加え、名人芸を要するそばの出前に頼らざるを得ない我が家の営業方針は、遠からず、さまざまな弊害を噴出させるであろうということは、藪そば入店によって決定的に予感させられた。


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符  牒



店に入った時の“いらっしゃいー”の声で始まり、初めての客は誰もが驚き、常連にとっては、いつもの藪にきたことを実感させてくれる藪の帳場は、注文したそばの名前を、ゆっくりとした、妙な符牒の大きな声で、店内に響き渡らせる。

この独特の符牒は、客にとっては単に藪そばの雰囲気を演出するためだけのもの、のように聞こえるだろうが、この声こそが注文発令所の帳場から、台所の戦闘部隊への膨大な情報を含んだ、詳細な戦闘命令伝達となっているのである。
この声によって、店内の様子は見えない台所の各部署がいっせいに活動を開始する様子は、デッキから海上を見えない機関室へのシンプルな命令伝達によって、巨大な艦が入港、出航し、海上を自由自在に動き回るのを連想させる見事なシステムである。


最前線の戦闘要員である「膳立て」は、一人用、二人用、お代わり用などにお膳を準備し、「釜前」は、一度に茹でるそばの分量を知ると同時にせいろや種物の丼を出す順番にセットし、そばを釜に入れ、「中台」は種物の汁の準備に掛かる。
その注文にいかなるオプションが加えられていようとも、情報は細大漏らさず、手に取るように伝えられ、それによって、そばの完璧な、かつ、公正な順番通りの仕上りが期せるのである。


必要十分な情報をきわめて単純化された文章の中に盛りこんだ傑作に“一筆啓上火の用心・・・”、また日本海海戦における秋山真之の電報、“・・・本日天気晴朗なれども波高し”があるが、藪そばのこの符牒にもそれらを彷彿させるものがある。

単なるムードの演出だけにとどまらない、この帳場の符牒こそ、藪を藪たらしめる象徴であるとともに、飲食店の注文受注の傑作でないかと思う。


藪そばの最大の特徴にして、単純ながらもっとも情報量に富んだ伝達方法

藪 の 符 牒

注 文帳場符牒膳立て(注文順に汁猪口・薬味・海苔・箸を膳にセット)
⇒ 釜 前(積み上げたせいろを注文順に組む・丼を並べる)
⇒ 中 台(鍋に汁を張り種物の種・玉子・鴨その他を準備)
完 成 ⇒ 完成したそばは膳立てがセットした膳にならべられ、帳場を通り最終チェックをうけたのち、客に出される

膳立て
符牒によって以下のように配膳の準備をする

せいろ二枚 お一人さん 御盆一枚・箸一膳・猪口一個・ そば汁は二枚分
“せいろにかけ(天ぷら他)
お一人さん”  御盆一枚・箸一膳
お二人さん”  御盆二枚・箸はそれぞれ一膳 同時に出す
“せいろ一枚 お代わり”
(せいろの追加)  蕎麦と汁・薬味  猪口と箸は不用
“せいろ一枚 猪口に薬味付き” 温そばの後のせいろの追加 猪口は必要
箸は不用


釜 前
この符牒によってそばを茹でる釜前は、同時に茹でる合計枚数を伝達される

“せいろ天ぷら” せいろ一枚天ぷら一杯 合計二枚
“せいろに天で四杯” せいろ二枚天ぷら二杯 合計四枚
“せいろに天で六杯” せいろ三枚天ぷら三杯 合計六枚
“天つき三枚せいろ” 天ぷら一杯せいろ二枚 合計三枚
“天つき三枚せいろ 天ぷら一杯せいろ二枚 と一緒に
まくで かけまじり五杯南蛮” ・ かけ二杯南蛮三杯 合計八枚(3+5)
“天まじり五枚せいろ” 天ぷら二杯せいろ三枚 合計五枚
(まじりは2) ・
“天勝ち七枚せいろ”
(7・9・11など奇数のうちの 天ぷら四枚せいろ三枚 合計七枚(九枚)
偶数分が勝ち) ・

中 台
温かいそばを仕上げる中台は、この符牒を聞き順番通りに注文のそばの種を用意する


その他の符牒
“せいろ一枚 お燗付(ビール付き)” お酒(ビール)がつく
お酒(ビール)を飲み終わったのちそばを出す

ただいまのお燗付きはすぐにお出しください

酒を飲みながらそばを食べるからすぐに出してくれ、と言う客の場合

ただいまのせいろはお燗付きになおります



せいろを注文した客が気が変わって酒を注文した時に「飲み終わってから食べる」ように、そばを出すタイミングを変更するための伝達

“お銚子二本土用寒 お銚子二本  一本は燗 一本は冷

藪そばは客の個別の特別注文にも十分に応えると同時にそのための符牒も用意してある

“せいろ一枚 ひと水切ってください”

盛ったそばをすぐに出さないで、少し時間を置いて乾き目にしたほうが好きな客の注文
“せいろ一枚 こわめで願います”

茹で過ぎでなく、少し芯があるものが好きな客の注文
“せいろ一枚 ひと釜効かせて願います”

時間をかけて茹でたそばが好きな客の注文


藪のそばには大盛りはない。常連は自分の腹の状況に応じて、注文枚数を決めるのだ。
しかし、時には花番(店番)から客の状況報告を聞いた帳場は、暗号で特別な注文を出す
特殊な符牒

“せいろ一枚 一本きんで願います” ・・少し多い目
“せいろ一枚 一本きれいで願います” ・・少し少なめ



.
田舎のそばやの藪ショック


関宿屋のそば

美味いとか、まずいとかは比較するものがあって感ずるはずであって、それしかない、となれば、なんとなく食べてしまうものと思っているが、もの心のついた時から家のそばをうまいと思ったことはなかったような気がする。
当時の米にあこがれた食糧事情と、小生の味覚年齢も原因かと思われるが・・・・


当時の関宿屋はそばをはじめ、鮨、天ぷら、うなぎ、宴会料理、そして売上の大きな部分を占める出前を商っていた。
出前は店以上の売上を占めていながら、作る技術をおぼえたくて入店したにもかかわらず、自転車で走りまわされてばかりいる若い衆からは厄介扱いされていた。
わかる!

ひとつの仕事をおぼえるだけでも大変なのに、出前の合間に多種類の作業をしなければならない若い衆にとって、ちょっと粋に見える寿司に比べ、地味で、体力が要って、粉だらけになる“そば打ち”には熱心になれないようで、“そばや関宿屋”の看板を自認している祖父治助は、木鉢(きばち)を使って、手で捏ねろというのだが、若い衆達は面倒くさがって、捏ね機・ミキサーを使って捏ね、そのまま機械にかける、いわゆる“ばらがけ”でそばを作っていた。

そば粉は栃木産のものだったがつながりが悪く、つなぎをつかわなければならない。
玉子はまだ高級品扱いで、そば粉の悪い夏場にだけ、ほんの少し、または特注の“卵切り(らんぎり)”でもなければ使うこともなく、したがってそば粉と同量のうどん粉を入れた、今にして思えば、いわば“そばらしきもの”を売っていたのだ。
それでも松戸では良心的なものだったそうで、なかには逆28(そば粉2割うどん粉8割)や外2(うどん粉10にそば粉2を混ぜる)などもあったとのことだ。

うどん粉は茹で上がるのに時間がかかる。
したがってうどん粉のつなぎの多いそばは注文の度に茹でたりしていたのでは昼時などは間に合わないので、昼に使う分は開店前にまとめてに茹で、それを注文の都度、“もり”にしたり、かけや天ぷらそば他、種もののそばとして使用していた。
いわば現在の駅そばを、店で売っていたわけだ。

つゆは宗田鰹1本で、もり汁用に作り、かけの場合は蕎麦を暖めて丼の中に汁一杯半、お湯一杯を“ぶっかけて”出来上がり。
まさに“かけ”である。

天ぷらは当時庭の井戸端の脇にあった野天に雨除けだけが付いた竃(へっつい)で、燃料は「」で揚げていた。

大正のはじめの頃、松戸のそば屋の天ぷらでえびを使っていた店はなかったそうで、そこに祖父治助が始めた東京の魚河岸の(日本橋)いきのいいえびを使った天ぷらそば、天丼はおおいに評判をとったらしい。当時は芝えびのいかだ揚げだったとのことである。

戦後しばらくたってから、芝えびから人気の出始めた大正えびにかえたそうだ。
ただ、松戸における売値との関係もあったのだろうが、えびを半分に裂いた薄いえびで、それにたっぷりと衣を付け、まるで“どてら”にくるまった栄養失調の病人のような天ぷらだったから、揚げるのには特殊な技術が要るし、食べるほうもえびに辿りつくのは大変である。

祖父治助がガスを恐がって使わせなかったので、そば釜の燃料は石炭、中台は練炭だったが、天ぷらの揚げ場所は屋外で、また燃料はだったので、急には揚げられないし、また火加減が難しく、特に薪が湿っていたり、風が強い日は大騒ぎだったようだ。
だから天ぷらもその日に使うものは朝一度に揚げておいたことはいうまでもなく、これが天ぷらそばになったり、天丼になったのだ。


うどんは、関西に比べ、関東では軽く扱われていたようだが、わが家でもうどんは「前の日に茹でておいたふわふわしたものがうまい」というのが“定説”になっていて、それだからか、“うどんは腹をこわした時に食べるもの”と思っていたが、腹をこわさなくても、いろいろな具を入れた、名前からしてうまそうな「鍋焼き」にして、ご飯のおかずにするのは好きだった。

かつて、ターキー(水の江滝子)の大好物は「すうどん」(関東ではうどんかけ)という話を聞いた時、“うどんかけ”にはなにか独特な美味さがあるのかもしれないと思って、気合を入れて食べてみたが、どうしても美味さがわからず、途方にくれたような思いをしたことがある。
その後、はじめて本場の関西のうどんを、あの白醤油の汁で食べてみて、我が家のうどんかけとは全くの別物であることを発見して、ターキーの“すうどん好き”が納得できた。


終戦後、“銀しゃり”に渇望していた時代にも、なおそばを好んだ“通”もいたようだが、通常、田舎では(一流店以外)、看板はそばやとなっていながらも、そばは“ご飯の代用食”の印象が強く、客人に振舞う食事も、VIPの場合はすし、天丼、親子丼などで、そばは“そばでもとろうか”という扱いを受けていたのだ。


一度茹でれば一日中使いかねないそば。
温めたそばを、ざるで振って丼に入れ、たんぽで暖めた汁とお湯をぶっかけるだけのかけそば。
そして朝揚げておいた天ぷらを丼汁で暖めてご飯の上に乗せるだけの天丼。
また一度に沢山作るには、それこそ名人芸を要求される親子丼、そして天丼やそばの店売り出前を、すばやく、一人で仕上げるという、千手観音のようなことをしなければならない、きわめて熟練を要求される田舎の蕎麦屋の中台・・・・・


藪ショック

何も知らずに藪そばに入店し、藪で育ったものにとっては、藪のシステムを当然のものとして受け止めることができただろう。
しかし、田舎のそば屋の台所しか知らず、それを当たり前のことと思っていた小生にとっては、清潔な、合理的な台所で、完璧な品質管理のもと、丁寧な扱いで作られ、この風情のある店で食べるそばは、とても“そばでも”、などというものではなく感じられた。

新しい作業を知る度に、目からうろこ、どころではなく、目玉全部が落ちるような、いや、むしろ別の天体に行ったような気にさせられた。
と同時に、豊かな食生活の時代の到来のきざしの中で、“藪のそば”に接することによって、かつて“”の扱いであったそばが“と金”になるばかりでなく、粋で、渋い食べ物の代表として、独自の地位を獲得するのではないか、という予感も藪そば与えてくれた。


しかし、それ以上に感動したことは、あらゆる情報を公開した完璧な、公正な、いわゆるガラス張り経営だった。
日々の売上の公開、そして厚生年金・社会保険・失業保険を含んだ給与明細票付きの給与(古典的な大入は繁日手当として前払い給与)、そして明快な労働時間、休日と福利厚生。そして、それでこそ可能な社員採用募集・・・・
羨ましいような家族関係と、家業でありながら企業並の雇用体系・・・・・

小生が受けた、まさに“カルチャーショック”と言っていい衝撃は、咸臨丸一行や、明治政府の訪欧視察団が受けた驚きを容易に想像させるものであり、海図なき航海にも似た、前近代的経営のわが店の現状の全面否定から、徹底的変革への覚悟を抱かせてくれたが、それはあまりにも巨大で、いったいどこから手を付けていいかわからない絶望も感じさせてくれた・・・・。




味 覚 自 分 史

森田掛次郎 (松戸市在住)



なににうまさを感ずるかは、時代や個人の生活環境の影響もあるだろうが、“ 味覚年齢 ”というものがあるのではないかと思う。


今は好物なのに、子供の頃には、大人はなんでこんなものを喜んで食べるのか、理解できないものがいくつもあった。
ジュンサイ、うど、とろろ、ひじき、麩、納豆、ゆば、豆腐・・・・

また、まぐろのトロ、ぶりの腹身、鮭の銀皮の部分、とんかつの脂身、筋子なども、子供の頃は油の舌触りが気持ち悪く、食べられなかったのだが、夏休みの間に10センチも背が伸びた高校の頃は、そうした脂身しか食べたくないほど好きになった。


その後はだんだんと味覚の守備範囲が広がって、今も嫌いなものはほとんどない。
ただ、目は欲しがるのだが、胃袋にはいる分量は驚くほど少なくなってきたので、油ものを食べ過ぎると、ほかのものが入りにくくなってくるようで、また昔のように、油っ気には手が出にくくなってきた。

神様は舌も成長に合わせて、実に上手に作ったものである。


農家出身の祖父がいたので、終戦直後でも、あまり米に飢えた記憶はない。
一般世間では“ すいとん ”を食う為に、夜が明ける前から行列したものだったが、5〜6個入っていたあの頃の“すいとん”は、今の上等の小麦粉のものとは大違いのものだったが、みんなうまそうにかっこんでいた。
小生も食べてみたが、とてもうまいと感じられなかったのは、あまり米に不自由していなかったからだろうか。
すいとんの幸せ ”は、ついに体験できなかったのだ。


貴重品の砂糖もどこからか手に入れることができたようで、東京を焼け出されて、近所に仮住まいしていたTさんのお母さんは、砂糖を猪口に“ すりきり一杯 ”入れたのを、子供のおやつにしていて、その子供達が猪口の砂糖を、うれしそうに舐めていたのが本当にうまそうで、真似をしてやってみたが、家が砂糖に困らなかった小生には、Tさんほどの感激はなかったと思う。

わが家の豊かな食料事情は、小生に“ うしろめたさ ”を刻むと同時に、あの時代の花形 “ すいとん ” や “ 砂糖 ” での 「本能の感激」の記憶を欠落させた。




当時の松戸には外食のできる店はあまりなく、駅前のミルクホール(現在はこの近在では最も繁盛している鯛焼屋)や、客がくると七輪で火をおこし、汁粉や、ぜんざいを食べさせてくれる饅頭屋、そして店の奥でミルクとドーナツを食べさせてくれた牛乳屋ぐらいだった。
牛乳と一緒に食べるドーナツは、本当にうまかったことを憶えている。

銀座に連れていってもらって、富士アイスではじめて飲んだ「クリームソーダ」の記憶はいまだに鮮明だが、とげ抜き地蔵や観音様へのお参り、また母の買物について行った時に、巣鴨や浅草の屋台のような店や、三越の食堂の中華の五目そば焼きそば、そして、銀座の不二家で体験した「チョコレートパフェ」も味も忘れられない。

風邪を引いた時にだけ食べられるバナナパイナップルの缶詰、そして波場パンやのケーキ、国産のジュースとはまったく違った味のバヤリースオレンジ・・・・・

とんかつや、洋食などは、なにか特別の日でもなければめったに出っくわさない憧れの食べ物で、中学に入学した時に親父が連れて行ってくれた上野の「蓬莱屋のとんかつ(ひれかつ)」の味も忘れられない。
当時の松戸では50円のとんかつは、相当高級品であったのに、蓬莱屋のとんかつは 300円だと聞いて本当にびっくりした。

生まれついた時から、あきれるほどの食べ物に取り囲まれている、今の子供の不幸を感ずるところである。



若い時は、空腹を満たす時に、いろいろなものを「食べてみたい」というチャレンジ精神が横溢していて、はじめてのものを食べることに、感激と大きな満足を感じたのだが、歳ととも冒険心が薄れてきて、横着になり、「味のわかったもの」・「味を想像できるもの 」で空腹を満たす、という、安易な方法に流されがちである。
昼どきに外食する場合でも「知った味」のそば、鮨、天ぷらやラーメン、カレー、とんかつ、カツ丼、うな丼などを、「味を予期できる店」で満たすようになってきた。

いくらでも食べられる若い時だからこそできた「味の冒険」よりも、目だけは欲しがっても、胃袋が分量を制限するようになってきたことが、舌の冒険心までを失わせているのだろう。



旅では歴史現場やきれいな風景に出会う「幸せ」を感ずるが、それ以上の楽しみが、地方の有名店での、舌で味わう「快感」である。

町を歩き回り、店の様子を観察し、自分の足で開拓するのは、最近、億劫になってきたので、旅行情報誌にその地方の有名な、伝統ある各種の繁盛店に印を付けて行く。
かつては田舎は、田舎なりの味があったのだが、最近はどこで食べても同じようなものばかりで、そうしたものを食べてしまった時は、とてつもない損をしたような気にさせられるものだ。

だから、一人で行った先で、どこの店に入ろうか迷った時は、駅そばに入って、天ぷらと玉子を入れた 「天玉」 で済ますこともよくあったが、これが案外失敗した憶えがなく、それなりに満足できた。


若い時には、なんといってもラーメン、チャーシューメンだったのが、ある年になってから理解できるようになった、ただの “ もり ” “ かけ ”の「 うまさ 」、また、乾いた土産のそばの味が、味覚の範囲を広げ、駅そばの味を楽めるようにしてくれたのではないかと思う。

特に最近は、「駅そばと承知した上で食べる駅そば」 は、無性に食べたいもののひとつになってきて、駅そばの汁の匂いを嗅がされると、店に吸い込まれてしまう。
一見立派な店で、中身が駅そばだったら、期待はずれのショックは相当なものであるに違いない。
しかし、立ち食いで、あの値段で、「 予期した通り 」の、まとめて茹でておいた、“歯ごたえのない”、“ ふかふかしたそば ”が出てくると、大いに満足を感ずる。


ある時に入ったドライブインは、かなり 「 気合を入れて」そばを作っていて、出てきたそばは、茹でたての、シコシコしたもので、まったくの“ 期待はずれ ”にがっかりした。

小生にとって駅そばは、「 まじめに“ 茹でっぱなし ” 」にしておいた、“ ふかふかした歯ごたえのないそば ”でなければならないのである。

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連雀町界隈


藪そばを見たのは藪そば入店の時が初めてである。
当時はすでに淡路町となっていたが、秋葉原、神田、お茶の水を結ぶ三角形のほぼ中間点に位置するこの一帯は、かつては連雀町という、実に洒落た名前で呼ばれていた地域である。
松戸から行く時は秋葉原か神田から歩くことが多い。しかし夜に藪から秋葉原、神田駅に向かって歩くとき、万惣の交叉点で道を間違えて、岩本町のほうに行ってしまったことが何度もあった。いくつもある国鉄のガードを間違えるのかもしれない。

須田町の交叉点付近は、東京下町にあって戦災を免れたようで、今もかつての羅紗屋の建物の並ぶ通りがあるが、藪そばはその奥の一角にあって、ぼたん、いせ源、竹むらそしてショパン等とともに、昔のままのように並んでいる。
横丁を挟んだ藪そばの隣は、萬代家というすばらしい建築の日本旅館で、ここもこの地域を代表する建物だったが、残念ながら現在はビルになってしまった。
その先には、やはり戦前からの、いかにも威厳のありそうな、しかし、ちょっと陰気くさく、壊れそうな同和病院のビルがあり、その先の角には昔のままの酒屋、加島屋があって、風呂の帰りにここで「酒屋での立ち飲み“トンパチ”」で生ビールを飲った事がある。うまかった。

加島屋の筋向いに「はつね」という小さいが、洒落たすし屋があって、気風のいいいい親父と、威勢のいい、気の利いた若い衆(カッちゃんといったか?)とでやっていて、ここでいろいろなタネの味を憶えた。
わが家の穴子は古い煮方で、硬くて、あまりうまいとは思っていなかったが、ここの穴子はふんわりと柔らかく、それを炙って握るうまさも知ってしまった。
はつねに入ったら旦那、おかみさんがいて、ご馳走になったことがある。


郵便局の通りを越した所にある清水湯も懐かしい。
さすがお江戸の湯屋で、大人湯はものすごく熱く、さすがの江戸っ子もあまり入っていなかったので、よし、それならおれが入って驚かしてやろうと思い、やせ我慢をして入り、まわりから「熱くないんですか」などと言われたり、「すごいね」といった尊敬のまなざし感じつつ、平気な顔をしていたものの、まさに“湯に食いつかれた”ようで、いったん入るや、簡単に動けない。じっと我慢を続けて、さていい頃と思ってあがると、皮膚は真っ赤になったが、意気がって行く度に入っていた。
馬鹿な事をしたものである。

不思議に思っていたのは、藪そばに内風呂がなかったことだ
この日本を代表する大そば店の大旦那をはじめ、みんなが風呂桶を持って銭湯に行く。
かつては将軍の、ついこの間までは大元帥陛下のお膝もとのこの地域は、内風呂を作る事を禁止されていたのだろうか?などとも考えたが、ともあれ、わが家にもあったし、当時のアパートの一人暮しでもなければ行かなかった銭湯に、あの大店の旦那、おかみさんをはじめ家族が、毎日、当たり前のことのように行っていたということに、今もなんともいえない感動を覚える。

尾張町、黒門町、旅篭町、岩本町、豊島町・・・。野暮な田舎もんの役人によって消滅されてしまった町名や、近代化と称するおかしな開発で変形されてしまった東京の下町のなかで、ここだけが歴史を刻んで残っていることに、奇跡を感ずるとともに、いつまでも、と願わずにはいられない。

































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残  像


たかちゃん

当時の藪の最先任。入店時に小生をみんなに引き回してくれた。NHKの“あすか”に出てくる芦屋雁之助を見るとたかちゃんの顔を思い出す。
いつもにこにこしていたことと、せいろに盛りつける時、独特の仕種で盛りつけていたのが印象にある。入店後しばらくして独立して店舗を構えたが、数年して他界された。
接触した期間は短かったが、藪そばで最初に出会った方で、いまだに顔を思い出す。


しんちゃん(ほうきさん)

小生よりも5歳ぐらい年長だっただろうか。店ではしんちゃんと呼ばれていたが、めったに笑った顔を見せず、冷静に静かな声で話すので、歳以上の貫禄を感じた。
真面目が白衣を着た感じで、なんとなく威厳を感じた兄貴分である。
最近は当然頭は白くなったが、今もその頃のままの兄貴の顔でいる。


幸ちゃん(新堀)

小生の二歳年上だったか。当時の釜前。
気さくでにこにこしていて、しんちゃんが威厳のある長兄だとすると、幸ちゃんはよく冗談を言う、ひょうきんな次兄といった感じ。食堂においてあった徳川家康を愛読していた。
甲高い早口でしゃべるので、一度では聞き取れないこともある。
昔は考えられなかったが、今は帳場で注文を通している。はじめて見た時にはびっくりしたが、見なれると案外似合っているように見える。当時は独身で同じ寮。


たっちゃん(滝口)

小生と同年だが、学年はひとつ下。穏やかで、怒った顔などは見たこともない。当時は“釜前”幸ちゃんの下で、せいろを盛っていた。最初の“せいろならし”はたっちゃんの盛ったそばだったかもしれない。かつて真っ黒な髪がたっぷりとあったが、最近はずいぶん白くなった。しんちゃん、幸ちゃんと一緒に本店にいた。独身寮で一緒。


正雄さん(田中)

高島屋の責任者として行っていたので、閉店間際以外はあまり会う機会はなく、仕事は見たことがなかった。


キーちゃん(田中)

高島屋組。目がくりっとしていて、話すと九州訛がでるが、スマートで都会風。すでに結婚していたが、奥さんは高島屋で見初めた美人とのことで羨ましさを感じた。


勲ちゃん(鬼沢)

高島屋組。角刈りの頭は今も全く同じ。那珂湊出身だったか、茨木弁は今も健在。こつこつと真面目に、当時から独立の気概は見えていたが、その夢を実現させ、さらに数店を構え、その上ハワイにまで出店、いわば「藪ドリーム」を実現。
仕事も真面目だったが、仕事が終わってからもまめで、真面目に頭を整え、洒落たブレザーに着がえて、酒を飲めないのに毎晩のように夜の町に出ていった。


こうし君(海野)

勲ちゃんと同郷で、同年。穏やかなのだが文句を言っているように茨城訛が特に強かった。細くて華奢だったが、「生」(そば打ち)を担当していて、大晦日のそばはパンやリポビタンDなどを持ちこんで小生と二人で打った。


ながてる(荻原)

たしか荻原永褌という侍のような名前だが、素浪人といった感じで、性格俳優になれそうな風貌だった。中台と生だったか。ちょっと甘ったれで、変わったところもあって、時々仕事の上でも巨大な目方のそばを打ったり、ひとを驚かせるようなことをしでかした。


巌君(がんぼう)

当時中台のエースではなかったか?
どんなに忙しい時でも、通しものをしっかりおぼえていて、声は大きく、少し荒っぽい仕事振りだったが、手早く、それこそがんがんと仕事をした。その鮮やかな手並と、物怖じしない仕事振りには羨ましさを感じたものだ。


明君

高島屋組だから、会うのは夜で、仕事以外の麻雀が強かったことが記憶にある(うまかったのではない )。
勝負ごとに強いのには共通したところがあり、一見獰猛で、負けても後を振り返らず、決してくよくよしない。かれもそうした共通点を持ち合わせていて、さほど長くやっていないのに、強さを感じた。左利きだったと思う。


としお君

入店は小生と同年だが、歳は徹君と同じく7歳下。しんちゃんを小さくしたような感じで、寡黙だが、決して取り乱したりしない正確な仕事振りが羨ましかったのを記憶している。後年、支店の責任者の時代に会ったことがあるが、当時のままだった。


徹君

四国の宿毛出身で、としお君と同年。
としお君の静と対照的な、明るくにぎやかな性格だったのが印象にあるが、後日寒中水泳をしたとの話を聞いてびっくりした。


福生のよっちゃん

福生のそば屋の息子で、見習にきていたのだが、小生が入店した年に年季が終わって家に帰ったので、接触は短かったが、閉店後のお楽しみによく一緒に行ったのを憶えている。かれには、たしか「S」という行きつけの店があった。余韻の残る低音で静かに話す声が耳もとに残っている。


横須賀のよっちゃん

かつての軍港・横須賀、衣笠駅前のそば家の息子で小生より数ヶ月遅れて入店。
眼光炯炯としていたが、空手の有段者とのことで、なるほどと思う。衣笠の店にお邪魔した事があるが、大きな店で、営業のスタイルは小生の家と同じように、寿司をはじめいろいろとやっていた。お父さんとお会いしたが、ご苦労の上創業され、その後もいろいろと斬新なアイディアで店を拡大されたのことで、我が家の祖父治助との類似点を感じた。今も元気に第一戦に君臨しているとのことである。


平野さん

小生の入店当時50歳ぐらいだったのだろうか?小生の入店直後は高島屋にいたようだが、途中から本店の台所で一緒になる。かつては老舗のそば屋の息子だったとのことだが、田舎のそば屋では知ることのなかったそばの古典の話とともに、若い時のプレーボーイ振りの話も聴いたが、実際玉突きも、麻雀も滅法うまかった。
小生の店が天ぷらで薪を使っている、という話をした時に、「田舎のそば屋でマキを使っているとはしゃれているな」というので、勘違いしていると気づき、「ちがいますよ。燃料に薪を使っているんですよ」といったら、びっくりして、目を丸くして絶句したのを覚えている。

平野さんの娘婿で山本さんという、腸のあたりを押さえて、胃が痛いという、相当ひどい胃下垂の人とも、しばしの間一緒だったが“そばや”らしからぬ、特異なキャラクターの人だった。


けさみちゃん
今朝美だったか? たしか山梨県の出身の大きな女の子で、変わった名前で憶えている。


かっぱ(けさみちゃんの妹だったか?)

姉妹で藪にいた。名づけたのは幸ちゃん?にこにこした子供っぽい子で、幸ちゃんが「おい、かっぱ」と呼んで、いつもからかっていたのを思い出す。


すいちゃん

花番。年中海に行っているようだったが、明るく、いつも、だれにも平ら。つい最近まで、藪にいたそうだ。(今もいるのだ!)


あっちゃん

当時の店の女の子は、みんな若く、キャーキャーしているところもあったが、膳立てを担当していたのは、背の高い、頭を高く巻いた、小生とはあまり年は違っていなかったと思うのだが、落ち着いた、ちょっと年配を感じさせる人で、冷静で、ポジションにぴったりであったに違いない。顔は覚えているが名前は忘れた。
(3月6日、すいちゃんから聞いた)


スータ(みっちゃん?)

帳場。これも命名は幸ちゃんか?
ちょっと訛があったような気がする。
よっちゃんといったか? 青春の名残のにぎやかな帳場さんもいた。
小山さんも時々だが、まさに謹厳といった様子で帳場にいた。にこやかに「八朗君」と呼ばれても、背筋がぴんとさせられた。



昨年、旦那、おかみさんは卆寿、傘寿を迎えられました。当日のすばらしかった様子は愛子、滋から聞きましたが、あの旧き良きお江戸下町神田のあの場所に、昔からの近隣とともに四代のご家族が楽しく同居するなかでのこのご慶事に、一層の深みと重みを感じます。

私が、藪そばにお世話になったのは今から36年前になります。そして自分でも、あらためて驚いているのですが、来年は、還暦を迎えるということになったのです。
物心ついた頃からの記憶は、案外鮮明なものであると同時に、四十になった時に感じたことは、二十歳から四十までは、まったく、あっという間に過ぎてしまったということでした。
だから「四十を基点にして、それまでの、あっという間、を折り返せば、六十になる」と解り、愕然とするとともに、いまさらじたばたしてもしかたがない、「不惑」の意味をいささか理解できたような気がしましたが、その通りに進行し、その時を迎えようとしています。

チャンチャンコが近づいたせいでしょうか、ノスタルジーもありますが、それだけでなく、継承を受けたものとして、次世代への継承も若干気になりだし、当時の事を何らかの形でとどめておくことの必要性を感じはじめたところだったのですが、本年の若竹会でみなさんと「藪でのカルチャーショック」の話などをしているうちに、これは我が家のためにも、書き留めておくべきものと感じ、いただいた記憶を綴ってみた次第です。
ご笑読戴ければ幸いです。
藪そばに感謝をこめて
平成12年2月

































ぼくの 藪そば物語

昭和38年〜48年

ぼくの 藪そば物語

・・・・・・・ 1

薮の符丁

・・・・・・・8

田舎のそばやの藪ショック

・・・・・・ 10

味覚自分史

・・・・・・ 12

連雀町界隈

・・・・・・ 15

残像
・・・・・・ 17